昭和44年07月12日 朝の御理解
御理解 第73節
「変人になれ。変人にならぬと信心はできぬ。変人というは、直いことぞ。」
変人というのはすぐい事と教えておられます。ですからこの辺りで言う変人。ちょっと風変わりな人だと言うのとは、だいぶ意味が違って参りますね。すぐいということ。すぐいという事は最近の御理解から頂きますと、私は真っ直ぐにです真の道を歩こうとしておる人だと。真っ直ぐにね横目を振らずに真の道を歩かして貰おう、真の道を辿り辿らせて頂こうという意欲に燃えておる事だとこう思う。それが私はすぐい事だと。そういう生き方を願っておる人を、変人という事に頂かなければならんとこう思うんです。
今日はそこのこうちょっと深い意味合いにおいての、ところをね頂きたいと思うんですけれど。4、5日になりますかあのう、総代会の時でございましたが、8日でしたかねあっ7日ですか総代会は。遅うまで信心の共励をさせて頂いて、総代さん方みんな泊まられました。ほれでその後また私共休ませて頂いてから、また共励殿で色々信心の共励があったらしいんですね。それもあの久富繁雄さんを中心にしてから、繁雄さんの話を聞こうと言うので、そのう皆さんがあの繁雄さんの話をまぁ聞かれたとこう。
それがそのう別にどうという事でもないけれども、そういう中に、有り難いというものを感じると。例えば言うならどういう中にでも、有り難いと感じれたら、それでいいのじゃないでしょうかと。例えばそれは人がどう言うても、自分はどうも不合理だと思うてもです。その結果が、有り難いという答えが出てくれば、いいのじゃないでしょうかと言う様なお話をされた事をです、翌朝御祈念の後に熊谷さんが、いよいよ先生とてもおかげ頂きましたと。
久富さんのお話を頂きましてから、本当にあのうもう何とはなしにおかげを頂いたとこう言われる。そしたら私その時にですね、繁雄さん哲学という事を頂きましたんです。これは例えば久富繁雄さんが気がついて、自分でもそんな難しい事は思っとらん。哲学と言やぁまぁ難しいものだとこうされております。いわば深いものだとされております。けどもそのうどういう中にあっても有り難いと感じれたら、こうそういう答えが出たらいいのではないでしょうかというその、その事が深いんですよね。
それも例えば私共では、そこの想像もつかないような。これはもうその人その人の持ち流ですからね。まぁ繁雄さん的なところから有り難いに入って行かれると。まぁ様々ですから。ですからこのうやはりそういう生き方を、脇から見ておると変人に見えるのじゃないでしょうかね。人は笑うてもこれが本当だと真っ直ぐい道だと。これが教えに素直に添うておるんだという生き方をしておる。しかもその本当の生き方には必ず、有り難いというものが伴うのだと。そこにまぁ極限しておられる訳ですよね。
一般に例えて申しますと、このすぐいという事は真っ直ぐい事。それを今日私はそのう真の道を歩こうとしておる人真っ直ぐ。しかもその真の道を歩くという事は、決して難しい事ではないのだとね。教祖様の仰る事を素直に聞かせてもらう生き方ね、こういう場合に教祖様の生き方と言うのはこういう生き方をなさったんだから、こう教えておられるから、こうさせてもらうだけの事ですから、難しい事じゃない。
自分のいわゆる自我がその、それを引き止めたり、やはり信心はしておっても他の道を歩かせたりするのでございますからな。そこの自我のない私。そこにすぐい道がハッキリそこに出て来る訳なんですよね。それで一般ではそこの所を、正直者が馬鹿を見ると言う様な事になって来る訳なんです。ですから確かに正直者が馬鹿を見るのですよ。けれども信心がその、それこそ〇〇さん哲学じゃないですけれども、それぞれのですね哲学ですよ。正直者が馬鹿を見るこれがもう一般の通り相場なんです事実そうなんです。
信心しておってもやっぱそうなんです。けれども信心とはね、そのもう一つ向こうの物いわゆる哲学なんですね。人があれは馬鹿じゃなかじゃろうかと言われてもですね、馬鹿になりきって行こうとする事。もう正直者が馬鹿を見る事は分かりきったこと。分かりきった事だけれどもそれを徹しようとすること。そこから私は本当の信心の世界、いわゆる真の道におる者の幸せを、そのもういっちょ向こうにある訳。だからそこんところをですね、やっぱ付き抜けなければ突き破らなければ。
普通一般の人が言うその事をもういっちょ付き抜けなければ、私は信心の本当の味わいというものはないという事です。確かにそう正直者が馬鹿を見るのですよ。まあ例えてまぁ極端に申しますと、信心しよると却って難儀な事が起こって来る。信心しよると本当に馬鹿らしい。言いたい事も言われんと、とにかく馬鹿らしいとか却って困った事になるとかね。却って肩身が狭いとかと言った様なところに、そういうこと皆さん体験される事があるでしょうが。いわゆる正直者がすでに馬鹿を見てる訳ですね。
正直とは正しく直ると書いてある。信心によって正しいしかも直るね。正しい真の道を素直に歩いていっておると、やはり馬鹿を見るというところがあるのです必ず。そこをですね利口に泳ぎ抜こう生き抜こうとする人達が、いわゆるその現代のまぁ様相ではないかとこう思うんです。人の事なんか言うておれるもんかという事になるのです。そうなって来ると親もなけりゃ子供もない、と言った様な事にまでなりかねないね。そこを例えば考え方が「句風」なようですけれども、信心はやはりそうなんです。
そこを自分から求めて奉仕しようとする心。そういう馬鹿とあほうを自分から買って出ようとする心。それは信心させて頂く事によって神心が動くからです。そこから奉仕の心が育つのです。例え自分の身を犠牲にしてでも、この人が助かるならばと言った様な、いわゆる神心が出けて来る。そこ辺を通る時はもういよいよやはり変人ぶりというものを発揮しておる訳でございます。
昔頂いたあのう御教えの中にですね。色は黒いが炭団のようでもと、色は黒うても炭団、色は黒い炭団のようでもと。いきのだるまの目に止まると。難儀なとこを通っておるね、苦労です苦労をしておる。それを神様のおかげでそこから助けて頂こうと一生懸命縋っておる、一生懸命信心を頂こうとしておる。いわゆる巡りの深さも分かって来る。自分達の本当に生き方思い方の間違っておった事も悟らせてもろうて。そこを改まらせて頂きながら、本気でいわば一筋に神様に縋っておかげを頂く。
兄弟3人熱心に信心しておる。嫁さん達もやっぱり信心をしておるけれども、中の一人の嫁さんは、もうその自分の姑親ですね。親の事を芯から願う。お爺ちゃんお婆ちゃんの事を、もう参ってくる度に芯から願うんですよ。もうそのためには私が修行しますからという態度なんです。同じ3人の兄弟が一様に信心しておってもです、嫁子が違うんです。しかも全部皆な信心しとるけれどもその願う方が違う。例えば神様の目からご覧になれば、兄弟3人が一様に信心をしておる。
嫁子達も一様に信心はしておるけれども、その中の嫁一人の嫁子はです、自分の主人の親の事を芯から願う。その為には自分を犠牲にしてでも良いと思うておる。私が修行いたしますからと言うて願うておる。いわば修行を買って出ておる訳ですね。そういう場合にですね、なら神様の目はどこに動くかと言うと、やはり修行を本気で求めておる、その氏子の上に神様の目は止まる事は間違いないです。だからやっぱり一番修行しております。一番馬鹿らしいでしょうがね。
一番神様に好かれるような、例えば生き方をしておる者が一番苦労してるんです。それでもそれを有り難いと受けて行っておる。そこにいわば雪のだるまの目に止まる訳ね。そこから先日私があのお月次祭の時に申しましたですね。松本幸四郎さんが鍛い鍛われると言う様な事を、ある雑誌に書いておられる。鉄は熱しておる時に打てと言う様な事を言うけれどもね、とても本当の事鍛われるというような事、鍛う鍛われると言った様な事はね、ただ熱しておる時だけだから打てるよう位なもんじゃないて。
という事をその刀をの、一振りの刀を作り上げて行く一つの過程と言った様なものからですね。刀を鍛えるという事については、いわゆるその熱い思い冷たい思いといった、そのところが火花を散らして行く。あの6貫目からの生鉄が一振りの刀になると言った様な事を言ってておる。だから自分が俳優だから、俳優として本当に自分の父は、初代の松本幸四郎。それから奥さんのお父さんが、一代の名優と言われた中村吉右衛門。
そういう名優を父に持ちながらです、鍛えられておらなかったという事を非常に、そのう残念に思うというのである。教えては貰ったけれどもね鍛えられていないて。いわゆる鍛えられるだけの自分でなかったという事なんです。私その話を聞いてから成程そうだなとこう思うんです。鍛えられるという事はですね、やはり自分が求めてです。自分が求めて苦労をしよう修行をしようと、と言う様なでなからなければね鍛えられないね。お参りしよった先生が怒ったけんで、もう俺は信心止めたという事になる訳です。
ただ教えるだけならばいっちょん腹かかん。けれどもこれを本当に物にしようと言うので、そんな事があるもんかと、例えばちょっとでも間違いを許さない。いわゆる鍛うて行く。そすと先生が怒ったと言うて信心を止める。これは信心だけじゃない全ての事がそうであるね、叩かれてでも教えてもらおうそれが鍛われるのである。私は変人と言うのはですね。私はそこんところをを一つね。
普通から見たらです馬鹿らしい話じゃないか、あぁしてお参りさせて頂いて、しげしげと参ってお供えまでしてから、時間潰して参りそして先生からは怒られちから。ちょいとこげな馬鹿な話はないじゃないかね。けれどもそれでもですね、それでも教えて頂きたいというところから、鍛い鍛われるという事になるんだと。松本幸四郎さんはね、親達からです駄目を押されたいつも。けれどもそのそこはあぁいう風ではいけなかったじゃないかという風に、駄目を教えはされたけれどもです。
ならそれを本当な物にする為に、叩かれては教えられていなかったという事である。それにはんなら言わばこちらの姿勢という物がですね。例えば今の三人兄弟のお嫁さんの話をしましたんですけど。皆んななら主人達が三人信心をしておる。嫁達もみんな信心はしておるのですよ。けどもその一人の嫁さんだけは父、主人の両親の事を芯から願う。私がひと修行させて頂いても良いからと言うて願う。なら願うからにはアンタなら修行せにゃでけんばい、いや修行は致します。
そこから鍛い鍛われるというものが生まれて来る。これは私が鍛うのじゃない神様が鍛うて下さる働きが始まる。だからそこに難儀が始まっておる。そう願う者が一番難儀をしておる、こんな馬鹿な事はない。けれどもそれは厭わない。私を犠牲私を犠牲にしてでも親の幸せを願っておると。そこに私鍛い鍛われるもの、だからそのやはり一番馬鹿を見るのですから、やはり変人に間違いない。けれどもそれがすぐい道を歩いておる事だけは間違いない。
だからそこんところを頂き抜かせてもらう。こげな馬鹿な事はない阿保な事はないけれども、その馬鹿と阿呆のもう一つ向こうを、神様は求めておられるのであり、また私共そこんところを目指してそういう中にあってもね。親の喜びの顔を見てから有り難いというものが湧いて来る。親が元気である事を有り難いと、心ひそかにお礼を申し上げておるね、そこに私はそれこそ〇〇さん哲学がそこにあるのじゃないでしょうか。だからそこをそこを通る事を、私は今日は変人だという風に申しております。
ですから本当に修行を買って出ようとする、そういう私は姿勢、そういう物の上にですね、神様のいわば雪のだるまの目に目に止まる訳。ならそこから目に止まったから、すぐそれがなら拾い上げられて幸せになるかち言うと、そこから本当の鍛えが始まる。鍛い鍛われると言うのはですね、そういう変人ぶりを発揮させて頂けて、初めて鍛われる事になるのじゃないでしょうかね。鍛われ、初めておかげになる。本当な事が分かる、本当なものが身に付いて来るのであります。
昨日一時の御祈念の後に、善導寺の久保山さんがお届けをするんです。今日東京の弟の所から電話が掛って参りましたと。十何年間長い間修行させて頂いておりましたが、今度いよいよ一本になる、いわゆる店を出させてもらう。今度新宿にお店を持つ事になったんです。もう今月の22日が開店の運びになると言うのです。それにどうでも開店前に善導寺の母さん、来て欲しいという電話であったらしい。
そしてその電話で言う事が。今度その電話がつくんだと、自分のそのお店に。まぁ二葉寿司新宿支店と言う様な事になるのじゃないでしょうかね、名称が。その電話の番号が兄さんこういう番号だと。僕はもう気になってたまらん九ばっかりを言う。けれどもこれは九を有り難く頂けという事であろうって、九がいくつもついてるんですよね。359-9039っち、はっは九ばっかりね。もう苦労には十何年間慣れて来たね、だから苦労があっても良し苦労をしようと受けようと思うけれどね。
あんまり九が多いから気になると言うてその電話で話したらしいんです。その事を茂さんがここでお届けさせて頂いたら、すぐに頂く事がですね。359と言うのはですね、三と言うは参るという字、お参りをするのお参りね。五と言うのは業ですあの業が深いというめぐりの事です、ぎょうと書いてあるね業。本当に例えばその苦労のために合楽に御神縁を頂いた。そこに業の自覚が出けためぐりの自覚が出けた。
そこからもうそれこそ本当に信心で、しようてどうした事じゃろうかと言ったような苦労も、次々とあったけれども、それを全部めぐりのお取り払いとして、その九を有り難いとして受けて行った。そしたらどういう事になって来たか。九は三九という事になって来た。9039。その苦労を和とこう和は丸いという事ね。車の輪でもいいですね車のね。39という事は有り難しという事。いわゆる九は有り難しという事にこれからはなるだろうと。今までの苦労が物を言うて来る。
今までの苦労がですここに報いられて来るね、苦労と思うておったのは苦はもう全てが有り難しの元であったと電話で神様は、電話番号で教えて下さったんだって。それで喜んでから帰ってから、恐らくすぐ手紙出す事でしょうと思うんですけれども。本当に私はそうだと思うね。ならここの場合もまぁ言うなら息子兄弟は、やっぱちょうど三人おりますよね。なら三人が三人とも一生懸命信心してますよね、親を思うというのもやっぱ負けず劣らず皆親を思うておるのですよね。
けれども稔さんの場合はそれが遠く離れておるから、その思いがまた切なんです。久保山の苦しかった時代にも、それこそ自分は犠牲になって、例えば久保山と言やあ善導寺の名門と言われておる。その名門の人が水商売に飛び込んで行こうと言うのであるから、それは親戚からでも随分の批判があったんです非難がね。けども僕はね久保山の家に僕が犠牲にならなきゃなる者はないて。そういう気持で東京へ行ったんです。だからどういう苦労な事があってもその事を思うたら僕は平気だとこういう訳なんです。
しかももうとうの昔言うならお店の一軒ぐらい、持たせてもらわなければならない筈の稔さんが、しかももうとにかく二十年近くもう、もうお店の為に働いた訳。ようやくまぁ今度支店を持つ事になったんですね。いわゆる359であった。めぐりの為の苦しみであり、またその為の信心であった。そこをそのういわば苦労を買って出た。そこに神様のいわば苦労が、雪のだるまの目に止まった訳なのである。これからのおかげはいかんによる事でございますけれども。
これからいわば今までの苦労は有り難い、すべてが有り難しという事になって来るであろう。このような勿体無いおかげを頂いてという事になって来るであろう。それまではやはり変人ぶりを発揮して来た訳なんです。俺達がまぁだ洋服でんネクタイて、そげなもんつるじっこっじゃなから。もうとにかく東京からやってくるに、あの普段着でやってくる。銀座の教会に毎日お参りさせて頂くのに、そのみったけがけで長靴がけでお参りをするのは、僕と末広の親父だけだち言って。
末広と言うもう日本一のビフテキ屋があります。そこの銀座の総代さん。そのビフテキ屋の親父と僕だけが、銀座教会にですね。もうそれこそキラ星のような信者方ばかり参っとる中にです、平気でいわばゴム靴なりでお参りが出けておるのは僕だけだと、僕とその人だけだと。九州へ帰って来るからと言うて洋服を新調した事もなか。もしどうでも買わにゃいかん時には、その古手屋に行ってから首つりを買うて来る。もう手が通させりゃもうそれで良か。
もう格好でん色でんそげな事は問題じゃないと言う様にですね。変人ぶりをいわば発揮して来た。そこにです例えば神様が電話番号の中に、神様が本当に囁きかけるように言うておられる。さぁこれからは有り難い事になるぞちね。それまではやはり苦労だったでしょう。一番ならまだ三人がどれが親不孝、どうち事ないけれどもなら一番の親孝行者が一番貧乏クジを引いて来た訳なんですね。しかしそういう子供の上に神様のいわば、雪のだるまの目に止まるところの、おかげを受けておったという事になる。
変人。ですから私は本当にです、確かにね世間で言うように正直者が馬鹿を見るという時代、世の中なのですけれども信心は、そのもう一つ向こうに哲学がある。その例えば笑われても正直者が馬鹿を見てもです、そこから自分のいわゆるめぐりの自覚とかね、親の為ならばと言った様な神心が起こってまいりまして、その馬鹿を承知で自分の身を犠牲にしてでも、そこを通り抜けようとする姿勢が、私は変人になって行く事であり、真の道を歩いて行く事だと私は思う。
そこに神様の思いが動かないはずはない。そこからいよいよ神様がこれでもかこれでもかという、やはり鍛い鍛われるという働きが始まる。それを鍛われたもの、それがどうどうなるかというて、鍛われたその事は苦であろうけれども、それが有り難しというおかげになる。その苦はこの和になって来るね。平和の和である。いわゆる和賀心である。それはそのまま39なおかげになって来る。有り難し勿体無しというおかげの頂けれる場がそこから生まれてくる。だから各々にですね繁雄さん哲学じゃない。
各々が〇〇さん哲学という物を、自分のその信心個性という物がありますから。そこを徹し抜いて向こうにあるものを、頂かせて頂くという事が信心だと。目の前に並んでおるものを頂くのじゃない。それにはですただ信心をしておりますというだけではなくてですね。親の為ならば私が修行致しますから、どうぞお爺ちゃんお婆ちゃんがおかげを頂かれるように。私のいわば犠牲はいといませんと言うようなです。私は姿勢というものが出けて来るところから、本当に信心を教えてもらえる鍛えてもらえれる。
いわばおかげが頂けるのじゃないか。だからそれを恐がっては本当の信心は頂けんという事になるのですね。そういう意味に於いてです一つお互いね。変人になれ変人にならんと信心は出けんと仰るね。本当に信心を本当の信心を頂こうと思うなら、変人を目指さなければならんという事が分かります。今日の変人という事その直いという事をですね。例えば普通で言う正直者が馬鹿を見る。確かに馬鹿を見るを馬鹿を見るその事を承知でね。そこん所からです私は自分の犠牲、自分の修行と言う様なものを覚悟の前で。
それを受けきって行く元気な心を持ってです、その向こうにある御神意に添わして頂かなければならん。それを頂く事が信心だと、そうならなければいわば信心は出来ぬと断言しておられます。信心する者は変人になれ変人にならねば信心は出来んと仰っておられる。ですからお互いがそこんところを目指さずして信心をしておるなら、ただ信心をただ教えて頂いておるだけで、鍛えられてはいないという事。鍛えられなければ本当なものが生まれて来る筈はないという事ですよね。
どうぞ。